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コースとは?/ キャッシュワン

[ 685] オフコース - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%95%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9

小田和正・鈴木康博・地主道夫らが、神奈川県横浜市の聖光学院高校時代にフォーク・グループを結成したのがオフコースの始まりである。1970年に「群衆の中で」でレコードデビュー。当初は生ギターを中心としたフォークソング的な曲を歌っていた。当時から実力は評価されながらも長年ヒット曲に恵まれなかった。
結成9年目の1979年にギターの松尾一彦、ベースの清水仁、ドラムの大間ジローが加わり、キーボード、シンセサイザーを含めたバンドサウンドとなる。結成10年目の『さよなら』の大ヒットで爆発的人気を得、それ以降も数多くのヒット曲を生み出し、時代を代表するビッググループになった。しかし、音楽番組全盛の時代にあって、他の多くのグループがテレビ出演で人気を高めていった中で、ほとんどテレビ番組に出演せず、レコード制作とコンサートに力を注ぐという独自の姿勢を頑なに貫いた。
そのシンプルで普遍的な愛の歌詞とニューミュージックと呼ばれるようになった洋楽のエッセンスを持ったポップな楽曲と美しいハーモニーのコーラス は多くの人を魅了した。オフコースの曲は近年でも多くのアーティストによってカヴァーされ、歌われ続けている。1982年の鈴木の脱退後、一時活動を休止した後、4人での活動時もヒット曲を連発し、変わらぬ人気を博する。4人で5年近く活動した末、結成から19年目にあたる1989年に解散。その後、小田と鈴木はソロとして、松尾、清水、大間は各々のソロ活動の傍ら1999年3月にユニットAcoustic Beatles Clubを結成し、3人でも活動している。再結成を望む声は今も根強いが、現在のところその可能性は薄いと見られている。[1]
静岡県田方郡修善寺町(現:伊豆市)出身。東京工業大学工学部制御工学科卒業。小田とは対照的な男らしい詞を書く。編曲にも大きな力を発揮してきた職人的存在。[2]
本名:大間仁世(おおま ひとせ)。秋田県鹿角郡小坂町出身。秋田県立大館鳳鳴高等学校卒業。高校時代に松尾と出会い音楽活動を共にする。松尾一彦と共に活動していた4人組ロックバンド「ジャネット」を経て、1976年5月よりオフコースに参加。[2]
秋田県山本郡八森町(現:八峰町)出身。秋田県立能代高等学校卒業。幼い頃から音楽に目覚め、早5歳で作曲したという。オフコース在籍時から他のアーティストに曲を提供している。「ジャネット」を経て、1976年10月よりオフコースに参加。[2]
1964年12月、高校2年のクリスマス・パーティーでバンドの生演奏をしたことがきっかけとなり、翌年の文化祭(聖光祭)のステージに立つことを目指しメンバーの中から小田和正、鈴木康博、地主道夫、須藤尊史の4人でグループが結成される。
1965年11月3日、聖光祭に出演。当初は本編の前座的な意味合いで午前中に登場、「グリーン・スリーブス」や「イエロー・バード」などフォークのヒット曲を演奏し歌ったが評判となり、閉会式の前にアンコールでステージに立った。このとき味わった喜びが、その後の小田・鈴木・地主の音楽を通じての交流に繋がった。
高校卒業後、鈴木康博は東京工業大学制御工学科に、小田和正は東北大学建築科にそれぞれ進学(千葉大学医学部に進学することも考えていたが、見学に行ったときに「カーテンが薄汚れていた」という理由でやめた)、離ればなれになる。しかし、休日に鈴木が車に機材を積み込んで仙台まで行って練習は続けられた。
大学時代、自主コンサートを毎年開催するほか、聖光学院時代の友達から頼まれて演奏したり、他の大学の文化祭に呼ばれるなど、3人は活発な演奏活動を続けた。
11月2日、LMC全国グランプリ大会(新宿厚生年金会館大ホール)第2位(第1位は赤い鳥)。この時のレパートリーは「One Boy」(ミュージカル『バーディー・バーディー』挿入歌)と「Jane Jane」(ピーター・ポール&マリー)、小田和正は最優秀歌唱賞を受賞。自分たちの演奏には絶対の自信があり、優勝して「ジ・オフ・コース」とアマチュア音楽活動を終え社会人になるつもりだったが、2位にとどまったことで小田・鈴木は気持ちに決着がつかなくなった。鈴木はミュージシャンになることを親に反対されていたが、これで音楽で生きて行く決心が固まり、内定を取っていた安川電機への就職を辞退した。
6月9日、ラジオ関東“ヤングヤングミュージック・イン・テクニクス”初出演。のちに“オフコースの小さな部屋”のテーマソング「小さな部屋」を生んだ番組。
5月1日、“ラブ・ジェネレーション・コンサート”を全国12箇所で開催(〜5月25日まで)。東芝レコード所属アーティストによるイベントコンサート。サディスティック・ミカ・バンド, チューリップ, 赤い鳥らとともにオフコースも出演した。
3月22日、“オフコースの小さな部屋 Vol.1”?なぜ音楽活動を続けるか? 開催(日本青年館大ホール?ゲスト:山本コータロー, 南高節, 斉藤哲夫, イルカ)。当時のマネージャー上野博の発案で計画された。一味違った人たちと触れ合う中で何か新鮮なものを見つけ、色彩の豊かなコンサートにしようという目的でこの年に5回、全部で計8回開かれた。
2月26日、シングル「ひとりで生きてゆければ」レコーディング開始(〜2月29日まで)。プロデューサーである武藤敏史が以前ディレクターとして担当していた「ジャネット」の元メンバー大間ジローをレコーディングに参加させる。
8月1日、それまで所属していた“サブミュージック・パブリッシャーズオフィス”から独立、“オフコース・カンパニー”を設立。
10月23日、第6回オフコース・リサイタル“秋ゆく街でIII”開催(中野サンプラザホール)。松尾一彦と清水仁が加入。清水の参加に鈴木は「技術力が無い」として反対したが、小田が「絶対オフコースには仁のような人柄の人間が必要だ」として引き下がらなかったため、鈴木は渋々これを了承した。後に鈴木は、清水の人間的な雰囲気の良さに「結果的には小田の言う通りになった」と語っている。
年末、鈴木がメンバー、そしてスタッフへ脱退を表明。小田の懸命の説得にも関わらず鈴木の意志は変わらなかった。
8月29日、栃木県・ジュンクラッシックゴルフ場にて行われた合宿でメンバー、スタッフを含むミーティング実施。4人での再出発を決める(〜9月1日まで)。
6月23日、フジテレビ系『オレたちひょうきん族』の「ひょうきんベストテン」に第1位で出演、「君が、嘘を、ついた」のプロモーションビデオ・プレミアム鑑賞会を行う。
1月、アメリカでのアーティスト契約への足がかりとして自身の曲を全て英訳したアルバムのレコーディングを開始(〜3月8日まで)。
曲のタイトルも歌詞もない状態で、最初にコード進行を作り、そこにみんなでアレンジを加えて行き、最後に詞を作る。オフコースは5人で演奏可能なアレンジでレコーディングする方針を取っていた。小田は当時「オーバープロデュースは嫌うので、音的には足りない部分もあるが、聴く人が足して聴いてくれればいい」と語っていた。[2]
1981年3月28日宮城県民会館で行われた「OFF COURSE CONSERT “We are”」最終公演のアンコール、「愛を止めないで」のエンディングにさしかかった瞬間、舞台の袖から200本のカーネーションがスタッフの手によって投げ入れられた。これについて小田は「僕たちの制作するものの中で特に、レコーディングとステージに関しては何がどうなっているか知らぬ部分はない。だから、僕らの想像を超えて何かが創造されるということは全く考えたことがなかった。しかしそれは起こった。他人が聞けば他愛のないシャレに過ぎないかも知れないが、それが僕にとっては今度のアルバム・レコーディング、そしてこのコンサート・ツアーのすべてが覆されるほどの衝撃だった。だから僕は『ヤラレタ…』と思ったのだった。そして、あんなことが起こったのが心から嬉しかった」と語っている。
シングル「YES-YES-YES」に妙な女性の声(ねぇ、私のこと好き?)が入っていると、テレビのオカルト番組で取り上げられることがあるが、この声は意図的に録音されていることが、当時の音楽雑誌『ギターブックGB』(ソニー・マガジンズ)の記事に掲載されている。声の主はレコーディングのとき、同じ録音スタジオを使っていた「レモンツリー」という男女デュオの女性である。
鈴木が脱退した経緯は山際淳司著によるドキュメンタリー『Give Up』に詳述されている。これによると、当時のマネージャー上野博が「オフコースが売れるにはまず一人、象徴となる人物を立てて、その人物をメインに押し立てていくべき」という方針を立て、小田が選ばれた。実際、そのころからメディア露出は小田がメインになっているのだが、このことに鈴木が反発したことによるという。
1982年、伝説となった武道館10日間公演の後、追加公演として横浜スタジアムでのコンサートも予定されていたが、鈴木の脱退に伴い、取りやめとなった。
現在「僕等の時代」の詞がオフコースの写真、プロフィールと共に、中学校の国語の教科書(「伝え合う言葉」教育出版)に採用されている。
シングルのA面はほとんどが小田の曲だが、最初から小田の作品をA面と決めていたわけではなく、メンバー(ほとんどは小田か鈴木)が曲を持ち寄り、コンペティションを行った結果によるものであった。このことは小田が『たしかなこと』(小貫信昭 著 2005年3月18日初版 ソニー・マガジンズ)で、鈴木が自身のホームページでのファンからの質問への回答で、それぞれ異口同音に語っている。結果として小田の曲が多くA面に採用されたことについて、小田は「ヤス(鈴木)に対して申し訳ないと思っていた」、鈴木は「そういう結果だから仕方ないと思っていた」と語っている。鈴木はよく自身のオフコース時代を「B面人生」と自嘲したりしたことがあったが、A面の選ばれ方自体については特にわだかまりは無いと思われる。
^ このコンサートの数日前に新曲「忘れ雪」(作詞:松本隆?作曲:筒美京平)が発売されたが、レコード会社の幹部が来ていたにもかかわらず自分たちが望んでリリースした曲ではないとの理由で演奏しなかった。この出来事はファンのあいだで“「忘れ雪」事件”と呼ばれるようになり、この曲はその後も演奏されることはなかった。
^ ストーリーは1982年夏の武道館コンサート後に解散し、それぞれの道を歩んでいたメンバーが5年後の1987年夏に無理矢理再結成させられ9月21日に再び武道館でコンサートを行うというもの。6月30日の武道館のライヴ映像がダイジェストで使われた。共演は謎の男役に中村敦夫、再結成についてコメントをする近藤真彦 (声は田原俊彦)・具志堅用高・小森和子(の物真似)で片岡鶴太郎がそれぞれ出演したほか、メンバーを連れ去る2人組としてスタッフの富樫要と柿崎譲二も出演した)。
^ タモリは1976年ごろから「女々しい」、「歌が軟弱、根暗な奴が聞く曲だ」と、ラジオ番組で盛んに批判・揶揄した。これによりオフコースのファンから所属事務所へカミソリ入りの脅迫状が届くまでになったが、小田本人はタモリのことは「けっこう好き」と雑誌『ギターブック』でファンからの質問に回答し、このときの出演も簡単にOKした。

 

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