可能とは?/ キャッシュワン
[ 38] “飲む点滴”甘酒の可能性を考える | エキサイトニュース
[引用サイト] http://www.excite.co.jp/News/bit/00091205339541.html
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甘酒というと、寒い冬やひな祭りに飲むものという印象がありますよね。でも最近では自然食のスーパーなどで「健康ドリンク」として推奨されているのです。ブドウ糖、ビタミン、アミノ酸が豊富で、甘酒はまさに、「飲む点滴」なんだそうです!! 江戸時代には夏バテ防止のために夏によく飲まれていたとか。冬に体を温めるための飲み物じゃなかったんですね……。とはいえ、あの独特の風味が苦手という人も多く、実は私もそうでした(特にあの缶入りのものが)。 しかし、手作りした甘酒は大変美味しいらしく、炊飯器を使えば家庭で簡単に作れるらしいのです。原料の麹もスーパーで手に入るし、早速作ってみました!白米(またはモチ米)を3合を柔らかめに炊いて、生麹(麹をぬるま湯で戻したものでも可)450gを加えてよく混ぜ、炊飯器のフタを開けてふきんを被せ、炊飯器を「保温」にしておきます。温度は55℃ぐらいでキープし、60℃を超えないよう注意! 温度計でまめにチェックしましょう。時々しゃもじで潰しながら混ぜ、6〜8時間おけばできあがり。最初はただのご飯だったのに、発酵していくとものすごく甘くなっていく。でんぷんが糖に変わるんだから当たり前なんだけど……。漫画『もやしもん』ファンの私は、「醸すってこういうことか!!」と思わず感動。できあがった甘酒は、お好みの濃度に薄めて飲みます。しょうがを絞って飲むのがスタンダードな飲み方。おおっ、できたてはすっごく美味しい!大量にできた甘酒で色んな飲み方にトライ。牛乳やレモンで割るととても美味しいらしいのです。まずは牛乳割り。「えっ、これ甘酒?」。まろやかな甘みはココナッツミルクを思わせ、まるでアジアンデザートのよう。温めてもいいですが、私は冷たい方が美味しいと思います。ココアを入れてミルクココア風にすると、ミロみたいな味に!? ミルク系は何でも合うのか、抹茶を入れた抹茶ミルク割りも美味しい。レモンはちょっと半信半疑でしたが、これが爽やかで美味しい。韓国のお酒マッコリにも似てるかな? 栄養タップリ甘酒は、食欲のないときや朝ごはんにもよさそう。発酵食品の甘酒は「ジャパニーズヨーグルト」とも呼ばれ、腸内環境を整える効果が。私は1週間飲み続けましたが、いつもよりお通じがよくなりましたよ。ダイエットにもグー。冬限定の飲み物にしておくのはもったいない。これからの季節も甘酒をぜひお試しあれ!(いなっち)・エキサイト商品検索『もやしもん』 エキサイトブログユーザーならブックマークレット機能を利用してこのページにトラックバックできます。 |
[ 39] Wikipedia:検証可能性 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E6%A4%9C%E8%A8%BC%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7
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この文書はウィキペディア日本語版の公式な方針です。多くの利用者に支持されており、すべての利用者が従うべきだと考えられています。必要に応じて編集することは可能ですが、その変更はコミュニティーの合意を反映している必要があります。大きな変更を加える場合は、先にノートページで提案してください。 この文書の要旨: ウィキペディアに掲載される情報は信頼できるものでなければいけません。あらかじめ信頼できる情報源から公表、出版されている事実、視点、理論及び議論だけを収録してください。記事は可能なかぎり情報源を明記すべきです。情報源が明らかでない内容は、異議を述べて取り除くことができます。 ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。つまり、私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけだということです。このことをウィキペディアでは検証可能性と呼んでいます。 検証可能性は、ウィキペディアの記事における三つの方針のうちの一つです。あとの二つは、「Wikipedia:中立的な観点」と、「Wikipedia:独自研究は載せない」です。ウィキペディアではこれらの方針を併せて標準名前空間、つまり記事に書くことができる情報の種類と質を決定しています。これら三つの方針は相互に補完しあうものであり、それらをばらばらに切り離して解釈すべきではありません。編集者はこれら三つの方針を併せて理解するよう努めてください。この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません。 記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典(参考文献)―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。 この文脈における「検証可能性」とは、編集者が、例えばニューヨーク・タイムズの記事の中身が真実かどうか検証する責任があるという意味ではありません。実際のところ、編集者はその種の調査をしないよう強く求められます。なぜならウィキペディアでは独自研究(オリジナル・リサーチ)を発表してはならないからです。記事は信頼できる情報源が公開している題材だけを含むべきです。それは個々の編集者が真実であると思うかどうかには関係ありません。直観に反するようですが、ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです。 検証可能であることと真実であることの違いは、次の例で見ればよくわかるでしょう。あなたは、ある著名な物理学者の「X理論」についてウィキペディアの記事を書いているとします。X理論は査読審査を経て学術誌に掲載されており、したがってウィキペディアの記事として適しています。ところが、執筆中にあなたがその学者に連絡をとったところ「実を言うと、今ではX理論は完全に誤りだと考えています。」と言われてしまいます。あなたが原著者本人からこれを聴いたとしても、彼がそう言ったという事実をウィキペディアに書いてはいけません。 なぜいけないのでしょう。それは「ウィキペディアの閲覧者層や他の編集者が満足に検証することができないから」です。読者は、あなたが誰なのかを知りません。世界中の閲覧者があなたに連絡して確認を取れるように、あなたの連絡先を載せるというわけにはゆきません。たとえあなたに連絡がとれるようになっていたとしても、閲覧者があなたを信じる理由がどこにあるでしょう。 その情報をウィキペディアに載せてよいものにするには、まず、広く信頼されている報道機関を説得してあなたの話を発表してもらわなければなりません。それは、査読を受けるのと同様の過程を経ることになります。つまり、まず記者、次に編集者、そしておそらくは事実調査員にチェックされるでしょう。もし問題があれば、さらに弁護士、そして編集長にチェックされるかもしれません。このような事実確認とその評価のしくみがあるのは、新聞に正確で公正な記事を載せるためです。 この事実関係を確認するという過程は、ウィキペディアでは提供できません。それゆえに、独自研究は載せないという方針と検証可能なことのみ載せるという方針が大変重要となるのです。(注:要するに、査読に相当する機能はウィキペディアの外部に求めよということ) もしもその新聞があなたの話を載せてくれたならば、ようやくその情報をウィキペディアの記事に書き込んで、その新聞を情報源として示すことができます。 分かり易く言えば、検証可能性とは信頼できる情報源(例えば、査読制度のある雑誌や新聞)からすでに公開されている情報だけをウィキペディアに記載することで、読者にも検証可能にするということです。編集者が独自に検証できるからといって、それは(一般的な)検証可能性を満たしたことにはなりません。 ウィキペディアの記事は、事実確認と正確さについて定評のある、信用できる第三者情報源に基いて書くべきです。学術的な主題については、なるべくピアレビュー(査読)を経た情報源を用いるべきです。また、主張する内容に応じて適切な情報源を選ぶべきです(珍奇な主張には強固な情報源が必要です)。 ウィキペディア日本語版では、可能な限り日本語による情報源を示すべきであり、常に日本語による情報源を日本語以外の言語による情報源より優先して使用するべきです。これは、情報源の資料が正しく使用されたことを、日本語版の読者が容易に検証できるようにするためです。 出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります。このため、執筆者は出典を明記すべきです。定評のある情報源がない場合、その話題に関する記事はウィキペディアで立てるべきではありません。 信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。しかし、もしも出典を示す機会を与えずに記述を除去すると、異議を唱える人がいるかもしれません。情報源を欠く記述について情報源の明示を求める場合、その記述をノートページに移動するとよいでしょう。または {{要出典}} 、{{誰}}、{{出典の明記}} 、{{未検証}}などのテンプレートを張ることもできます。 一般に、信頼性に乏しい情報源とは、事実確認について評判がよくない情報源、あるいは事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」等)、または編集上の監督を欠く情報源です。 ある情報が、例えばタブロイド新聞(夕刊紙やスポーツ紙のような娯楽中心の大衆紙)のような信頼性に乏しい出版物ひとつの上にしか見つけられないという時があり得ます。その情報があまり重要でないものならば、それを除去してください。もしもその情報が重要で残す値打ちがあるものならば、それをくだんの情報源によるものと明示してください。例えば、「イギリスのタブロイド紙『サン』によれば…」としてください。 ウェブサイトを作ったり本を自費出版したりした上で、自分がある分野の専門家だと主張することは誰にでもできます。そのため、自費出版物、個人のウェブサイトやブログは、原則として適切な情報源としては認められません。ブログや電子掲示板の発言を一意見として紹介するのも同様です。例外となりうるのは、関連分野において著名な専門研究者や有名ジャーナリスト(記者)が自主公表した場合でしょう。その人の著作がこれまでに信頼できる第三者によって出版済みであるなら、その人の自主公表物を情報源として認めてよいこともあり得ます。しかし、注意してください。もしその専門研究者のブログに掲載された情報が本当に書く価値のあるものならば、他の誰かが既に執筆していたはずです。 例えば、ある信頼性に乏しい新聞についてウィキペディアで記事を書く場合、その新聞の記事の例を示す必要があったとしても、第三者についてのその新聞の主張を記載するべきではありません(ただし、同じ話が信頼に足る第三者の情報源によって掲載されている場合は、この限りではありません)。 ある事柄が単に「検証可能」だからといって、それをウィキペディアに書いてよいとは限りません。 Wikipedia:ウィキペディアは何でないかをご覧ください。また、情報が「真実」であるということだけでは、その情報がウィキペディアの「検証可能性」の要求、つまりウィキペディアに掲載されるためには情報源が付けられていなければならないという要求を満たしているということを意味しません。(もちろん、情報が本当なら、すぐにもちゃんとした典拠・情報源がみつかるはずですが)。裏を返せば、「独自研究」は「信頼できる情報源」を持たないがゆえに、ウィキペディアでは受け入れられない、と言うこともできます。Wikipedia:独自研究は載せないをご覧ください。 ここでは、歴史家たちの一致した証言をたどっていくことにしよう。そして、彼らの記述が相違する点は、誰の記述かを示した上で書いていこう。 |
[ 40] 反証可能性 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E8%A8%BC%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7
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ある仮説が反証可能性を持つとは、その仮説が何らかの実験や観測によって反証される可能性があることを意味する。例えば、「明日、太陽が東から昇る」という仮説は、「明日、太陽が東から昇らない」という観測によって反証されるかもしれない。これに対して、いかなる実験や観測によっても反証されない構造を持つ仮説を反証不可能な仮説と呼ぶ。(注*反証可能性の概念そのものにはこれ以上の意味がない。反証可能性という概念の存在を認めることと反証主義とを混同してはならない。また、反証可能性の概念は、反証不可能な命題の意味、価値または有用性を排除しない)。 原子命題とは、「明日、太陽が東から昇る」「お隣の田中さんは犬を飼っている」などのように、それ自体で意味的に完結した単独の命題である。原子命題は、端的に、反証可能であるか反証不可能であるかのどちらかである。しばしば、日常において科学的と考えられている命題が原子命題として見られると、その命題において反証が可能でない場合がある。例えば、「生物は進化した」「大正12年に関東大震災があった」「彼は殺人を犯した」などである。これらの仮説の時制を見れば分かるように、一見科学的だがそれ自体では反証可能性を持たない仮説は、その仮説の意味内容すなわち検証の直接的な対象が過去の出来事であったときに多く見られる。 普通、検証されようとしている仮説は、いくつかの原子命題の論理的な結合を通じて成り立っている。そして、専らそれを検証することが目的であるところの仮説を主要仮説と呼び、その前提や条件となる諸命題を補助仮説と呼ぶ(注*何を主要仮説とし、何を補助仮説とするかはおよそ検証者の任意である)。 例えば、「明日、太陽が東から昇るのを私は見るであろう」という仮説を主要仮説として設定しよう。このとき、検証者は、通常、様々な前提や条件を付加する。具体的に言うと、「明日、雨でないならば」「私が観測を妨害されないならば」などである。さらに、曖昧さを避けるために、「地平線のどの範囲から昇れば東から昇ったと言えるのか」も定義する必要がある。これらが「明日、太陽が東から昇る」という仮説の補助仮説になる。補助仮説の中には、当たり前すぎて検証者が普段意識しないものも含まれる。そして、主要仮説と補助仮説のそれぞれについて、反証可能であるかどうかが判定される。それゆえに、「明日、雨が降らず、かつ、私が観測を妨害されないならば、明日、東から太陽が昇るのを私は見るであろう」という仮説は、「明日、東から太陽が昇るのを私は見る」を主要仮説とし、また、「明日、雨が降らない」および「私が観測を妨害されない」を補助仮説とし、そして、その全ての原子命題について反証可能な一個の仮説であると定められる。 この仮説は論理的な推論であるから、「明日、雨が降らない」および「私が観測を妨害されない」が反証されなかったにもかかわらず「明日、東から太陽が昇るのを私は見るであろう」が反証されたとき、この仮説は正しくないとみなされる。 反証可能性のないアドホックな仮説を補助仮説として追加すると、その理論全体の反証可能性が低下する。これは、A ∧ B ⇒ C という推論が(論理的にではなく科学的に)妥当であるかどうかを判断するためには少なくとも A と B が反証可能でなければならないからである(注*論理学の要請からすれば C も反証可能でなければならないはずだが、しかし、自然科学においては主要命題 C が必ずしも直接的に反証可能であるとは限らない。これは、自然科学においては反証不可能なプログラム仮説を主要命題に組み込むことが認められることに由来する。例えば、進化論の主要命題はこれに属すると考えられる)。 ある仮説が反証可能性を持つかどうかを判定することは難しい。次のような実験を考えてみよう。降霊会を開いて霊を呼び出す実験が失敗した。心霊現象に否定的な学者は、少なくとも今回用いた方法(条件)によって霊を呼び出せるという仮説が反証されたと考える。これに対して、心霊現象に肯定的な学者が「霊の実在を疑う者がいたための失敗」と反論する。ここで、もし心霊現象に肯定的な学者が「霊の存在を疑う者が降霊会場に立ち入らず、遠隔のビデオカメラによって撮影するならば、降霊は成功する」と付け加えるならば、この降霊理論は全体として反証可能性を持つものになる。つまり、メインの実験が失敗した後で主張者がそれに補助仮説を付け加えたとしても、その補助仮説が反証可能である限り科学的検証の場に立つことができる。反証可能性が否定されるのは、例えば、「心霊現象は科学的に分析できない」と主張するような場合である。したがって、安易に「この仮説には反証可能性がない」「これはアドホックな補助仮説である」と断定するのは危険である。 反証可能性を持つ仮説のみを科学的な仮説とみなす科学哲学上の立場を反証主義と呼ぶ。哲学史的に見れば、反証可能性の概念は科学と擬似科学の判定基準として提案された。反証主義によれば、科学理論は反証可能性を持ちつつ未だ反証されていない仮説の総体であると定義される。そして、厳しい反証テストに耐え抜いた仮説ほどより信頼性が高いものとみなされる。反証主義の代表的人物はカール・ポパーである。ポパーはフロイトの精神分析やアドラーやマルクスの理論を反証可能性がないため、科学的ではないと批判した。現在では、疑似科学を反証可能性だけでなく別の要素も含めて特徴付けようとする傾向が強い。テレンス・ハインズは、疑似科学の特徴として、反証不可能性の他に証明責任の転嫁や検証への消極的態度を挙げている。 |
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