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大正とは?/ キャッシュワン

[ 268] 大正 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3

本時代は後世から振り返った時、大正デモクラシーに基づいた安定期として見られる事が多い。しかし、同時代的には、近代日本の象徴であった明治天皇の崩御、そして病弱であった大正天皇の即位、という不安感を拭きれない状況から始まったのである。また、大正期を通じて都市に享楽的な文化が生まれる反面、スラムの形成、民衆騒擾の発生、労働争議の激化など社会的な矛盾が深まっていった。
大正年間には、2度に及ぶ護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、明治以来の藩閥支配体制が揺らいで、政党勢力が進出した。それは大正デモクラシーと呼ばれ、尾崎行雄・犬養毅らがその指導層となった。大正デモクラシー時代は、大正7年の米騒動の前と後で分けられることが多いが、米騒動後、初めて爵位を持たず、衆議院に議席を持つ平民宰相原敬が内閣を組織した。しかし、原はその登場期に期待された程の改革もなさないままに終わり、一青年により東京駅頭で暗殺された。普選運動が活発化し、平塚雷鳥や市川房枝らの婦人参政権運動も活発となった。大正14年には、普通選挙法が成立したが、同時に治安維持法が制定された。言論界も活況を呈し、天皇制と民主主義を折衷しようとした吉野作造の民本主義や美濃部達吉の天皇機関説などが現れた。大正12年に関東大震災が起こり、首都が壊滅的な打撃を受けたが、程なく復興した。震災後、山本権兵衛内閣が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。大正末期には、ベルサイユ・ワシントン体制に順応的な幣原外交(加藤内閣)が展開され、中国への内政不干渉、ソ連と国交回復など、一定の民主的な色彩を示した。
明治末期にかけては軍部や元老山県有朋の下で藩閥政治が続いていたが、大正初期にかけては山県系列の桂太郎と比較的リベラルな西園寺公望が交代で組閣し、桂園時代とも呼ばれていた。明治45年、第2次西園寺内閣の陸軍大臣上原勇作が、内閣が2個師団増設を否決したことに抗議して単独辞任し、陸軍は後任陸相を出さなかったため軍部大臣現役武官制によって陸相を欠いた西園寺内閣は総辞職した。
その後、桂太郎が議会での交代のルールを無視して宮中侍従長から3度目の首相に返り咲こうとした。この桂の返り咲きに対して、都市部の知識階級を中心にその反発は強まった。そして尾崎行雄・犬養毅らによる憲政擁護運動(護憲運動]])が起こり、新聞の批判も起こった外、民衆が国会を取り囲む事態も生じ、ついには僅か数ヶ月で倒閣となった(第一次護憲運動、大正政変)。
このため山本権兵衛(第1次)に組閣の命が下った。立憲政友会の援助を受け、原敬内相の下、安定した政権運営を行った。軍部大臣現役武官制を緩和するなど、政党寄りの姿勢を示したが、シーメンス事件をきっかけに再び世論の反発を受け、最終的には貴族院との関係悪化から倒れた。
次いで元老井上馨の後押しにより、庶民的で大衆に人気のあった大隈重信が組閣した。1914年に勃発した第一次世界大戦では、加藤高明外相が中国に二十一か条の要求を提出した(対華21ヶ条要求)。
大隈内閣退陣後には、二大政党制を目指し、1913年に桂が死の直前に結成した立憲同志会が他党を取り込むかたちで憲政会へと拡大した。
これとほぼ同時に組閣した寺内正毅内閣が成立した。1917年のロシア革命でソ連が成立したが、日本は革命政権の転覆のためシベリアに出兵した。折から、大戦景気によるインフレとシベリア出兵をきっかけとして国内では米価が暴騰し、富山県から米騒動が起こり、全国に広がった。政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は退陣した。
代わって初めて爵位がなく、また衆議院に議席を持つ平民宰相として政友会の原敬が首相となり、1918年本格的政党内閣として原敬内閣が成立する。しかし、1921年に原が東京駅頭で一青年に暗殺された。
続いて政友会総裁となった高橋是清が首相となったが、政友会の調整能力に欠き、高橋内閣倒閣後は非政党内閣が続いた。
その後、関東大震災や虎ノ門事件の発生は、それまでの藩閥に危機意識を抱かせ、第2次山本権兵衛内閣が虎ノ門事件で倒れた後、枢密院議長から天下って清浦奎吾が内閣を組織しようとした。それに対し憲政会・革新倶楽部・政友会の三派は、普選の採用、政党内閣制の樹立を掲げて、藩閥・官僚勢力を主体とした政友本党に対抗した。護憲三派(憲政会、政友会、革新倶楽部)は選挙で勝利し、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した(1924年、第二次大正政変)。
加藤高明内閣は1925年(大正14年)、普通選挙法を成立させ、ついに身分や財産によらず成人男子すべてに選挙権を与える普通選挙が実現することになる。普選は、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった。またそれは「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、それと同時に治安維持法を成立させ、「国体の変革」「私有財産否定」の活動を厳重に取り締まった。しかし、これによって政党政治が定着するようになった。この後、昭和7年に犬養毅内閣が五・一五事件で倒れるまで、政党政治が続き、明治以来の藩閥政治は一応終焉した。1932年の五・一五事件まで、政党内閣時代が続き(憲政の常道)、政治は、官僚や軍部を基盤にしつつも政党を中心に動いていくこととなった。
1914年には第一次世界大戦が勃発した。日本は直接的戦闘地域は殆どなかったにもかかわらず元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦し戦勝国の一員となった。
発生直後こそは世界的規模への拡大に対する混乱から一時恐慌寸前にまで陥ったが、やがて戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本と米国両新興国家が物資の生産拠点として貿易を加速させ、日本経済は空前の好景気となり、大きく経済を発展させた。特に世界的に品不足となった影響で造船業・繊維業・製鉄業が飛躍的に発展し、後進産業であった化学工業も最大の輸入先であるドイツとの交戦によって自国による生産が必要とされて、一気に近代化が進んだ。こうした中で多数の「成金」が出現する。また、政府財政も日露戦争以来続いた財政難を克服する事に成功する。
だが、1918年に戦争が終結すると過剰な設備投資と在庫の滞留が原因となって反動不況が発生して景気が悪化した。更に戦時中停止していた金輸出禁止の解除(いわゆる「金解禁」)の時期を逸したために、日本銀行に大量の金が滞留して金本位制による通貨調整の機能を失って、政府・日銀ともに景気対策が後手後手に回った。更に関東大震災による京浜工業地帯の壊滅と緊急輸入による在庫の更なる膨張、震災手形とその不良債権化問題の発生などによって、景気回復の見通しが全く立たないままに昭和金融恐慌・世界恐慌を迎える事になる。
1923年(大正12年)には関東大震災が生じた。この未曾有の大災害に東京は大きな損害を受けるが、震災後、山本権兵衛内閣が成立し、その内務相となった後藤新平が辣腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行いインフラが整備され、大変革を遂げた。またラジオ放送が始まるなど近代都市へと復興を遂げた。しかし、一部に計画されたパリやロンドンを参考にした環状道路や放射状道路等の理想的な近代都市への建設は行われず、日本は戦後の自動車社会になってそれを思い知らされることとなり、戦後の首都高速の建設につながる。一方、この震災に乗じて、暴動が生じるというデマが振り撒かれ、朝鮮人や共産主義者の虐殺が行われた亀戸事件などが起こったことや、震災直後の緊急対策であった筈の震災手形の処理を遅らせて不良債権化させた結果として金融恐慌を招いた事は歴史の負の側面であろう。
大正時代前後に都市を背景にした大衆文化が成立した。今日に続く日本人の生活様式もこの時代にルーツが求められるものが多い。
東京においては、震災の影響が総じて少なかった丸の内、大手町地区にエレベーターの付いたビルディングの建設が相次ぎ、一大オフィス街が成立した。下町で焼け出された人々が世田谷、杉並等それまで純然たる農村であった地域に移住して、新宿、渋谷を単なる盛り場から「副都心」へと成長させた。それより先大阪では、おびただしい私鉄網が完成し、なかんずく阪神急行電鉄の巧みな経営術により、大阪平野に広大な住宅衛星都市群が出現した。東京帝大の卒業生の半数が民間企業に就職するようになり、「サラリーマン」が大衆の主人公となった。明治時代まで呉服屋であった老舗が次々に「百貨店」に変身を遂げ、銀座はデパート街へと変貌した。
明治神宮外苑に「神宮外苑野球場」ができたのが大正15年、その前年出発した「東京六大学野球」が愈々隆盛をきわめるようなる。「大阪朝日新聞」、「大阪毎日新聞」が100万部を突破して東京に進出、それに対抗した読売新聞も成長を果たして、今日「三大紙」といわれるようになる新聞業界の基礎が築かれた。大正14年3月には、東京、大阪、名古屋でラジオ放送が始まり、新しいメディアが社会に刺激を与えるようになる。震災で鉄道が被害を受けたこともあって、「自動車」が都市交通の桧舞台にのし上がり、「円タク」の登場もあって、旅客か貨物であるかを問わず陸運手段として大きな地位を占めるようになる。都市部では新たに登場した中産階級を中心に“洋食”が広まり「カフェ」「レストラン」が成長、飲食店のあり方に変革をもたらした。又、コロッケなどの登場によりそれまで洋食とは縁のなかった庶民の食卓にまで影響が及ぶこととなった。明治時代まで庶民に縁のなかった「欧米式美容室」、「ダンスホール」が都市では珍しい存在ではなくなり、男性の洋装が当たり前になったのもこの時代である。一方、地方(特に農漁村)ではそういった近代的な文化の恩恵を受けることはまれで、都市と地方の格差は拡大していった。
文学界には、芥川龍之介や白樺派の人道主義(ヒューマニズム)が台頭した。 このころまでに近代日本語が多くの文筆家らの努力で形成された。今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、芥川龍之介、有島武郎・武者小路実篤・志賀直哉ら白樺派、中里介山の『大菩薩峠』や『文藝春秋』の経営にも当った菊池寛などの文芸作品が登場した。同時期の大正10年には、小牧近江らによって雑誌『種蒔く人』が創刊され、昭和初期にかけてプロレタリア文学運動に発展した。また大正13年には、演劇で小山内薫が築地小劇場を創立し、新劇を確立させた。新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「活動写真」と呼ばれた映画などの娯楽も徐々に充実した。
この当時、社会事業をめぐる議論が盛んとなり、米騒動後には政府・地方で社会局および方面委員制度の創設が相次いで行われ、それらの機関によって都市の貧民調査や公設市場の設置などが進められていった。 また大正八年には、第一次世界大戦を契機とした国民の思想・生活の変動に対処するという目的で内務省の主導による民力涵養運動が開始されており、後の教化総動員運動の先駆けともなる、国家が国民の生活の隅々まで統制を行おうとする傾向がこの時期から見られるようになる。
こうして大正時代において社会事業が活発となった原因として、小作争議の頻発や労働運動の大規模化など、地方改良運動に見られるような従来の生産拡大方針では解決不可能な問題が深刻化したことが指摘されている。
明治天皇が崩御して、新元号をスクープしたのが朝日新聞の緒方竹虎である。彼は記者時代の新元号スクープにより出世し、同社編集長、更に後には政治家へと栄転する。

 

[ 269] 大正天皇 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87

大正天皇は1879年(明治12年)8月31日午前8時20分、明治天皇の第三皇子として東京の青山御所で誕生した。生母は典侍 柳原愛子である。明宮嘉仁(はるのみや・よしひと)と命名された。生来健康に恵まれず、生まれてから年が明けるまで重い病気に悩まされた。侍医(主治医)の浅田宗伯(漢方医)は「御分娩あらせられた時に湿疹を認めた」(後に消失)とのちに記録している。
このような状態ではあったが、明治天皇は昭憲皇太后(一条美子)との間に皇子女が得られず、側室出生の親王・内親王ら5人も、第三皇子である大正天皇の出生以前に相次いで死去していたため、皇太子となった。なお、嘉仁親王は幼少期に昭憲皇太后の子であると聞かされていたため、生母が柳原愛子と知った時にはショックを受けたとされる。
誕生の翌年、皇室の風習により中山忠敬の屋敷に里子に出された。この間、明治天皇は養育にほとんど口出しをしなかった。1885年(明治18年)3月、嘉仁親王は青山御所に戻ったが、弟宮は全員、妹宮はほとんど逝去しており、年の近い親族が少なかった。そのため、あまり家族と接することがなかったとされる。
1887年(明治20年)8月31日、8才の誕生日の時に皇后・美子(昭憲皇太后)の養子となる(儲君)。同年9月には学習院に入学した。学習院時代には侍従にせがんで軍隊の背嚢を背負って登校し、これがランドセルの原型となるなど微笑ましい出来事が語られている。しかし、健康に優れず学業に集中できなかったこと、学習院の厳しい規則に馴染めなかったことなどから、留年することもあった。1889年(明治22年)からは熱海への保養が毎年の恒例になった。
1889年、立太子礼を挙げる。他方学習院での学習は一向に進まず、乗馬などに進歩があった一方で、抽象的な思考を要する理数系の教科を苦手とした。1894年(明治27年)には、健康状態から学業を続けることが困難であるとして、学習院を中退。その後は赤坂離宮で数人の教師によるマンツーマンの授業を受けた。この時重視された教科は、フランス語、国学、漢文であり、特に漢文を教えた川田甕江からは大きな影響を受け、漢文を趣味としたという。しかし、これらの教育も嘉仁親王にとっては非常に厳しく、しばしば明治天皇に愚痴を漏らしていたという。
明治天皇は伊藤博文の奏上を受けて、これまで東宮職の役人に任せきりであった嘉仁親王の管理を教育から健康まで総合的に行うため、新たに東宮輔導の職を設け、有栖川宮威仁親王をこれに任命した。これ以降、嘉仁親王は威仁親王を兄のごとく慕い、のちに威仁親王が継嗣のないまま危篤に陥った時には、第3皇子である宣仁親王に高松宮の称号を与えることで、有栖川宮の祭祀を継承させている。
1900年(明治33年)5月10日、嘉仁親王は九條節子(貞明皇后)と結婚した。このとき節子は15歳であった。「病弱の皇太子に早めの結婚を」と願った周囲の声に後押しされてのものといわれている。ただ、寂しい幼少時代を過ごした親王にとっては非常にうれしい出来事だったらしく、幼少期以来優れなかった健康がこの後回復していった。この結婚の時、日本各地で記念として桜が大量に植樹された。日本=桜という概念が生まれたのもこの時期であるといわれる。また、現在広く行われている神前結婚式は、この御婚儀を東京大神宮が一般向けにアレンジしたものである。結婚後は明治天皇とは対照的に一夫一妻を貫き、子煩悩で家庭的な一面を見せたという。大正天皇が事実上では初の一夫一妻制の天皇である(のちに昭和天皇が一夫一妻制を明文化)。
健康が回復してからの親王は日本各地を回った。その範囲は沖縄県を除く全土であった。有栖川宮の黙認もあって、この時の親王は非常に気さくで、身分に構わず気軽に声をかけた。移動も特別編成のお召列車でなく一般乗客と同じ普通列車に乗り込み、兵庫県の陸軍大演習ではいきなり旧友宅を訪問、新潟では早朝に宿舎を抜け出して散策をし、ある時なぞは蕎麦屋には入るなど自由奔放にふるまった。これは当時、明治天皇が一般人の目の見えないところに「神」として君臨していたのとは好対照である。京都帝国大学(後の京都大学)付属病院を訪れた時には患者に声をかけ患者が涙にむせんだという逸話も残っており、福岡県知事との会話の間に持っていたタバコを気軽に差し出したという記録も残っている。このような思ったことをすぐに言動に出す癖は幼少期からのものであるが、嘉仁親王の癖を好ましく思わなかった明治天皇や元老山縣有朋らに幾度となくたしなめられていたようである。
嘉仁親王は、巡行中、興に乗れば漢詩を創作している。父の明治天皇や子の昭和天皇が和歌を好んで読んだのとは好対照である。富山県訪問時に詠んだ「登呉羽山」の詩は現在、呉羽山山頂に碑文となっており、おそらくは大正天皇唯一の詩碑とされる。[1]創作した漢詩の数は実に1367首もあり、歴代天皇のなかでも飛びぬけている。(第2位が嵯峨天皇の97首)開放的な天皇の性格上、和歌が31文字で限られた表現しかなしえないので、多様な表現が可能な漢詩に心を寄せたものと思われる。
1907年(明治40年)、嘉仁皇太子は大韓帝国を訪れ、皇帝純宗や皇太子 李垠と会っている。このときの大韓帝国は、保護国とはいえまだ併合前の「外国」であったため、史上初めての皇太子の外遊という事になった。このとき、嘉仁皇太子は李垠をたいそう気に入り、その後朝鮮語を学び始めたという。
1912年(明治45年)7月30日、明治天皇の崩御(死去)にともない、皇位を継承して大正と改元した。1915年(大正4年)に京都御所で即位の御大典をあげるが、その性格と病状の悪化から「頼りない」「頭が弱い」などという認識が、山縣ら政界の一部での公然とした認識となった。天皇自身、即位後の急激な環境の変化と、山縣らの冷淡な態度に過度のストレスを持つようになる。そんな中で御用邸の休暇には、ヨット、乗馬や漢詩作りに癒しを求めていく。だが、第一次世界大戦による国際情勢は、僅かばかり残された天皇の自由を奪っていく事になる。
1917年(大正6年)頃から、公務や心労が病の悪化に輪をかけ、公務を休むことが多くなり、1919年(大正8年)には食事をとることも勅語を読むこともできなくなるほど病状は悪化していた。1921年(大正10年)には皇太子裕仁親王が摂政に就任することで天皇は事実上の引退となり、病状は公にされる運びとなった。このため、後々にも「頭が弱い病弱な天皇」として一般に認識されることになった。その一方で、皇太子時代から巡啓に同行するなど近しい立場にあった原敬は、のちに語られる「大正天皇像」とは大きく異なる「気さく」で「人間味あふれる」「時にしっかりとした」天皇像を『原敬日記』に記している[1]。
「先帝の事を申すは如何なれども、その皇太子時代は究めて快活に元気にあらせられ、伯母様の所へも極めて身軽に行啓あらせられしに、天皇即位後は万事御窮屈にあらせられ、元来御弱き御体質なりし為め、遂に御病気とならせられたる、まことにおそれ多きことなり。」
「父上は天皇の位につかれたために確かに寿命を縮められたと思う。東宮御所時代には(中略)子供の目にも溌剌としてうつっていた。それが天皇になられて数年で、別人のようになられたのだから。」
「遠眼鏡事件」とは、大正天皇が進行した脳病により帝国議会の開院式で詔勅を読んだ後、大正天皇はその勅書をくるくると丸め、遠めがねにして議員席を見渡した とされる事件であり、それにまつわるさまざまな風説[2]が流布されており、大正天皇は暗愚であった と評価される要因のひとつであるとされる。
この種の風説に関して書かれた記事は数種存在するが、記事相互の内容(天皇の行動、「事件」が起こったとされる時期など)はかなり異なっており、信憑性は定かではない。また、語り出されたこと自体が太平洋戦争後すなわち「近代天皇制の呪縛から解放され」た昭和30年代にほぼ集中している[3]という[1]。
この事件について、近年、大正天皇付きの女官による証言が報じられている[4]。 この証言は「勅書をくるくると丸め、遠めがねに」したことを否定してはいるが、どのような経緯で、お付きの女官が大正天皇本人から聞くことになったかは述べられてない。また、その「事件」がいつの出来事であるかも明確ではない。そのため、そういった「事件」が実際に起こったのか、その経緯についての大正天皇の説明が真実であるかということを判断することはできない。
また、大正天皇は脳膜炎を患って以来手先が不自由であり、上手く巻けたかどうかを調べていたのが、議員からは遠めがねのように使っていたように見えたという説もある。そもそも、勅書は丸めるものであるので丸めること自体におかしな点はない。
大正天皇は、最終的に政治的な立場から排除された天皇であり、大正天皇が病弱で暗愚である エピソードの流布自体への政治的な思惑を指摘する意見がある。実際、皇太子時代から近かった原敬首相存命時には極力伏せられてきた天皇の病状は、原の暗殺直後に一般に流布されるようになったとされる。
それに対して、戦前は不敬罪があり、皇室の噂は封印されていたもの[5]であり、(風説の報道が昭和30年代に集中しているからといって)虚構との説明には説得力がないという意見がある。
^ 「遠めがねにして覗いたあと、丸めた勅書を持って近くにいた人の頭をポコッと叩いた」という話が付くこともあるが、これは東京裁判における大川周明の行動との錯綜であるとの見方がある。
^ ただし政治学者の丸山眞男は、大正時代からこの手の風説はあったとしている。丸山眞男は著作「昭和天皇を廻るきれぎれの回想」において、以下のように記している。
私は四谷第一小学校の二年生であった。大正天皇が脳を患っていることはそれ以前に民間に漠然と伝わっていた。それも甚だ週刊誌的噂話を伴っていて、天皇が詔書を読むときに丸めてのぞきめがねにして見た、というような真偽定かでないエピソードは小学生の間でも話題になっていたのである
^ 朝日新聞平成13年3月14日付の記事によると、大正天皇から直接聞いた話として以下の証言をしている。
ある時、議会で勅語が天地逆さまに巻きつけてあったので、ひっくり返して読み上げ、随分恥ずかしい思いをした。このようなことがないよう、詔書を筒のように持って中を覗いて間違っていないことを確かめて読み上げようとしたものだ。

 

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