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信濃とは?/ キャッシュワン

[ 774] 信濃 (空母) - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%BF%83_(%E7%A9%BA%E6%AF%8D)

就役後間もなく米軍による雷撃により撃沈され、実働することはなかった。なお、アメリカ海軍の原子力空母エンタープライズが登場するまで史上最大の排水量を持つ空母であった。
第四次補充計画の中で大和型戦艦建造番号「110号艦」と「111号艦」の計2隻の建造が決定された。この2隻は、先に建造された大和と武蔵の不具合を改善するなど、より完成度の高い艦として建造されることとなった。
この時排出した土砂は、近くにあった砲術学校へと運ばれ、同学校のグラウンドが拡張される事となる。 1940年(昭和15年)5月4日、ドックの完成と同時に110号艦の起工式が行われたが、この時行われる神主のお祓いも、機密保持のため本職ではなく資格を持つ工事関係者が行ったと言う話がある。
昭和20年初頭の完成を目指し工事が進められている途中、太平洋戦争が勃発。開戦劈頭の真珠湾攻撃とマレー沖海戦の結果、戦艦が航空機に対し脆弱性を露呈したのと、戦時急造艦の製作などで資材をそちらに使うため、111号艦は建造中止、解体(戦艦伊勢、日向の航空戦艦化の資材として一部使用)となり、ある程度船体ができていた110号艦はドックから出せる程度まで工事が進められたものの、その後の予定が取り消しとなってしまう。その上、建造資材を損傷艦にまわされるなどして、その工事ものびのび(一説には停滞)となってしまった。
ミッドウェー海戦の結果、保有正規空母の2/3を失った海軍は、戦時急造空母の建造を決定すると共に、既存艦の空母への改装として、110号艦の空母への改造が決定する。
よく「このコンセプトは大鳳の延長である」との意見があるが、「大鳳」があくまで「既存の空母の弱点である飛行甲板の防御」を主として建造されたのに対し、110号艦はあくまで「洋上の飛行基地」であることを第一として考えられている。しかしこの案は軍令部側からの反発を招き、2ヶ月近い議論の末、攻撃機を搭載することを艦空本部が了承し建造が1942年6月再開する。
当初飛行機は甲板に係留する形にして完全な防御をする案まであったが、結局搭載することなり格納庫が作られた。本艦は格納庫は一層しか持っていないが、これは、検討当時の110号艦は、艦中央が中甲板付近の工事が進んでいた状態であり、それより下に格納庫を持たせることができなかったためである。日本空母の殆ど全ての艦が密閉式格納庫なのに対し、攻撃機搭載用の前部約125mは開放式で、戦闘機搭載用の後部約83mは密閉式という特異な形態となっている。前部が開放式なのは、攻撃を受け火災が発生した際、そこから爆弾や魚雷を投棄するためである。ただし、開放式格納庫の開放部分は、長さ10m以上に及ぶ開口部が片舷1ヵ所ずつのみとなっている。
本艦は、大和型戦艦として建造されていたため、空母として十分以上の装甲を持っていた。ただし、水線上の舷側装甲が410ミリから200ミリへと装甲が減らされている。戦艦当時の主砲弾薬庫は、そのまま空母の高角砲弾・機銃弾・爆弾・魚雷庫と使用され、航空機用燃料庫には、通常使用される25ミリに111号艦の弾薬庫の底部装甲を貼り合わせている。また、磁気機雷対策として、大和型戦艦の二重底から三重底へと強化されている。
艦橋は右舷中央部に大型の島型艦橋が設置された。艦橋の後部は煙突であり、外側に傾斜した上方排出の煙突となっていた。
空母改装時にはすでに大和型戦艦として罐の配置などの基礎ができあがっていたため、27ノットの速力しか出せず、正規空母としては低速であり、当時5tを超えていた艦上攻撃機「流星」の発艦に不安を残していた。
しかし、その3ヶ月後に発生したマリアナ沖海戦で、翔鶴・大鳳・飛鷹と三隻を失う敗北をし、その後進攻してくるアメリカ軍に対抗するために110号艦が必要との意見があがり始めることとなる。そして同年7月、1944年10月15日までに竣工させよとの命令が下ると共に、「軍艦信濃の本籍を横須賀鎮守府とする」との発令が下ることとなる。
ただでさえ建造予定が遅れているにもかかわらず、初期の竣工時期より5ヶ月近く短縮した上に、熟練工を兵役で取られ、その不足を補うために民間造船所の工員や海軍工機学校の生徒のみならず、畑違いともいえる他の学部の生徒も動員されることとなる。普通、このような官民や他の学部を集めると問題が起こりそうなものだが、「信濃の完成が日本を救うこととなる」との思いがお互いに良い刺激となり、作業は順調に進んだという。
工事の単略化のため、兵装や艦内装備は最小限にとどめ、艦内の水密試験も最低限(一説では省略)しか行われなかったとされる。
予定では、ドックに半注水し艦を浮揚、その段階で艦のバランス等を確認する事となっていたが、その作業中、突然ドックの扉船が外れ、外洋の海水がなだれ込むこととなった。これは扉船のおもりとしてバラストタンクへ海水を注水しなければならないのにそれを忘れるという人為的ミスであった。この事故でドック内が騒然となった中、信濃を固定するロープが切れ、奔流にのって前後に動き、左舷をこすりつけながら艦首のバルバス・バウがドックの壁面に激突するという信じられない事態が発生した。調査の結果、ここでも実に単純なミスが発覚した。
本来、信濃のバラストタンクへも海水を入れなければならないのに、これが全く注水されていないという人為的ミスであった。作業ミスと言ってしまえばそれまでだが、無謀ともいえる工期短縮が招いた結果ともいえる。
ともあれ、このアクシデントにより竣工は一月遅れ、11月19日となってしまい、その間に海軍最後の艦隊戦であるレイテ沖海戦(捷一号作戦)が起こり、連合艦隊は名実共に壊滅することとなる。
公試中に局地戦闘機紫電改を改造した艦上型が着艦実験行われ、成功を収めている。それらの結果から、紫電改や彩雲・流星などの洋上基地として活用を期待され、11月28日、残された艤装や兵装の搭載の実施と、横須賀地区の空襲から逃れるため、呉海軍工廠へ回航すべく出港する事となる。
その間も信濃の内部では建造工事が続けられており、高射砲、機銃はほとんど搭載されておらず、機関も12基ある缶の内8基しか稼働していなかったという。航空機は特攻機の「桜花」を搭載、輸送していた。当日は天候が悪く。また、沿岸部を航行する危険性を考慮し「夜明け前に出航外洋航海」の進路を取った。護衛の駆逐艦は第17駆逐隊の磯風、浜風、雪風の三隻(この戦隊は、捷一号作戦からの帰投時、浦風とともに日本への回航時に戦艦金剛を護衛していたが、警戒航行の之字運動をしていたにもかかわらず金剛と浦風を潜水艦に沈められている)。既に海軍艦艇の掃海能力より敵艦の静寂能力を上回る状態であり、また、艦乗員の練度不足により見張りも完全とはいえなかった。
突貫工事による影響は各所にのぼり、ねじ山が根元まで切られていないボルトや2cmも隙間の空く防水ハッチなど、竣工とは名ばかりの未完成艦であり、艦長の判断以前に沈没が確定されていたと言ってよい惨状だった。更に、艦搭乗員も内部に精通したものが皆無で満足に応急処置を行えない状況であった。また、アーチャーフィッシュは、空母のような重心の高い艦を横転させるため、喫水付近を雷撃できるように自艦を浅い深度に設定しており、これも信濃沈没の原因と言える。

 

[ 775] 信濃国 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%BF%83%E5%9B%BD

この項目では令制国の信濃国について記述しています。長野県歌については信濃の国をご覧ください。
信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、東山道に位置する。領域は現在の長野県とほぼ同じ(旧神坂村・旧山口村が岐阜県中津川市に編入される等の微妙な差異はある)。信州(しんしゅう)と呼ぶこともある。延喜式での格は上国、中国。万葉集での枕詞は「みすずかる (水薦苅)」。
7世紀の令制国発足により佐久、伊那、高井、埴科、小県、水内、筑摩、更級、諏訪、安曇の十郡を以って成立し、現在の長野県のうち木曽地方を欠く大部分を領域にした。信濃は、はじめ科野と書いた。
平安時代から鎌倉時代に、美濃国から木曽地方を編入し、筑摩郡の一部としたが、その正確な時期はわかっていない。また戦国時代には、南信州を支配下に治めた武田信玄によって三河国加茂郡から現・根羽村の地域を編入し伊那郡の一部とした。
歴史的文献に現れる国府の所在地として、和名類聚抄、拾芥抄、易林本の節用集のいずれにも全て筑摩郡と記述されている。現在の松本市にあたる。
ただし諸説として、国分寺及び総社のひとつである科野大宮社が上田市にあること、東山道のルートや宿駅の配置(小県郡亘理(曰理)駅)などから推測して、和名抄編纂以前には小県郡に国府があったとする学説もあるが[1]、1次史料による証明・裏付けは今のところ皆無であるため、憶測の域を出ない。2007年現在において、遺跡からの有力な出土物や遺構も発掘されていない。
鎌倉初期には善光寺近傍に「後庁」が建てられ、国司の目代が置かれた。1335年には、建武の新政に反旗を翻した諏訪頼重が国衙を襲撃し戦火で消失、以後再建されることがないまま、守護を務める武家にその権能が委譲され、次第に形骸化していった。
守護所の位置は守護の交代によって移り変わるが、水内郡善光寺後庁、小県郡塩田、埴科郡船山、水内郡平芝、筑摩郡井川などに置かれた。
有史以前、県内には縄文時代の遺跡が多数分布し、この時代の中心地のひとつであった。とくに小県郡長和町の和田峠は日本における黒曜石の代表的な産地であった。弥生文化は東海地方で隆盛を誇り、後に下伊那に流入し、次第に拡大した。松本市で県内最古の前方後方墳、弘法山古墳が発見されている。時期については4世紀始め説もある。その後各地の平地部で前方後円墳が築造された。古墳時代後期には高井郡を中心に高句麗式の積石墳が多数分布する。
神代の時代、出雲の国譲りに反対していた大国主の長男建御中主尊が大和方の武甕槌神と相撲をとって敗れ、助命されて信濃国諏訪郡に住まわされたと伝わる。その地には諏訪神社が建立され、信濃国一之宮の格式を誇り武芸の神として尊崇を集めた。
飛鳥時代、本多善光の開基により、善光寺が建立されるなど、今日においても日本でも伝統的な建造物として、また信仰の拠り所として続いている。
大化改新以前は現在の千曲市を拠点に科野国造が支配していた。645年の大化改新で科野国が設置され、後に佳字の信濃に改められた。721年から731年まで諏方国が分置されたこともある。
平安時代初期には桓武平氏の平将門が同族の平貞盛との紛争において下総国から貞盛探索の兵を出すなど、信濃は平安時代初期における平氏内紛の舞台ともなった。
平安時代末期に入ると、河内源氏の源義賢の遺児木曾義仲が後白河法皇の第三皇子以仁王による平家追討の令旨に呼応し、挙兵するなど信濃の兵が信越地方から京都にかけて活躍をしたが、後に河内源氏の嫡流源頼朝と対立し、その弟範頼、義経らに討たれた。
鎌倉時代初期には関東御分国の1つとして鎌倉幕府の知行国であり、その後の知行権は公卿や興福寺・東大寺などの手に移るが、在庁官人や国人の関東御家人化が進んで在京の遙任国司や知行国主の影響力は薄れ、「国司その用あてざる国」と揶揄された。戦国時代まで存在した守護には比企氏や執権北条氏、小笠原氏、斯波氏、武田氏らがいた。(初代は比企能員、末代は武田勝頼)
鎌倉時代末期、後醍醐天皇が鎌倉幕府追討の宣旨を下し、足利尊氏、新田義貞らの有力御家人が寝返り得宗北条高時を討って、幕府を滅ぼすと北条氏の御内人であった諏訪頼重らが高時の遺児北条時行を奉じて鎌倉を奪還するなど(中先代の乱)、信濃においては朝廷方と北条方による抗争が繰り広げられた。後醍醐天皇が建武の新政により公家中心の政治に武士の不満が高まり、足利尊氏の新帝擁立で朝廷が二つに分かれた南北朝時代に入ると、南朝方の諏訪氏や仁科氏・香坂氏らと北朝方の小笠原氏や村上氏との間で抗争が繰り広げられた。南朝方は後醍醐天皇の皇子である征夷大将軍宗良親王(信濃宮)を奉じて南朝方の一大拠点を築こうとしたが、桔梗ヶ原の戦いで小笠原氏が勝利すると諏訪氏や仁科氏などが北朝側に組し、信濃南朝勢力の衰微は決定的となる。南朝の衰退後は、同じ北朝方でも足利幕府を後ろ盾とする守護小笠原氏と在地豪族の代表格村上氏が南朝方の諸族を巻き込んで争うなど(大塔合戦)、南北朝の二極対立とは別に、守護対在地豪族の争いから複雑な対立関係が続き、足利幕府と鎌倉公方、鎌倉公方と関東管領との対立がその動きに拍車をかける形となり、信濃においては強力な支配権を持つ守護大名は登場することはなかった。将軍足利義教の時代に信濃守護を務めた小笠原政康は親義教派の武将として永享の乱などで活躍するも、政康の没後、小笠原氏は分裂し再び衰える。
古くから国人その他の在地豪族の諸勢力が拮抗、北信の雄の村上氏、東信の諏訪氏、府中から伊那に勢力を誇る守護の小笠原氏、木曽谷の木曾氏らがその代表格である。他にも、信濃守護代を務めた大井氏や、信濃北部の高梨氏も有力であり、また井上氏や海野氏などの旧来の名族の流れを汲む一族も健在であった。関東管領や越後守護の上杉氏の影響力も存在していたが、上杉氏が衰退すると次第に在地豪族の独自性が強まっていくことになる。
戦国時代には甲斐国の守護武田信玄が進出し、諏訪氏を滅ぼし、その勢力を配下に収め、小笠原氏、村上氏を追い、木曾氏を幕下にするなど、小豪族の多くは滅亡したり、追放されたりあるいは降伏して武田氏の傘下に組み込まれ、大部分を武田氏が支配した。同じころ越後国より上杉謙信(長尾景虎)が北信に進出、武田氏と対峙、川中島の戦いが起こるなど攻防が繰り広げられた。
信玄の死後、その後を継いだ武田勝頼が引き続き支配したが、次第に衰え、敗れた。その後は織田家の版図に加えられ、織田信長配下である毛利長秀や森長可らに与えられた。しかし本能寺の変後、彼らは逃亡、その無主の地にはかつて武田氏によって駆逐された一族が一時的に復活するが、やがて徳川氏の勢力が進出し、かつての武田軍の持つ兵力を吸収しつつ勢力を拡大していった。やがて家康は豊臣秀吉と対立し、信濃の諸豪族も秀吉方と家康方に分かれ対立するも、家康が秀吉と和睦し後に臣従し関東に移封されると、信濃は豊臣氏方の武将の支配下に収まった。
関ヶ原の戦いの直前、徳川秀忠の軍勢は、かつて徳川氏に仕えながら豊臣氏の配下に転じ、関ヶ原において西軍方についた真田昌幸、幸村父子の居城上田城を攻めたが敗れた(上田合戦)。関ヶ原の戦いにおける第2の舞台である。真田昌幸は関ヶ原以後、高野山に流された。その後、東軍の真田信幸が松代城に入った。西軍の真田幸村は豊臣方について後年の大坂の役で武名を挙げることになる。
また木曽地方は全域が尾張国名古屋藩領であり、伊那郡内には美濃国高須藩及び陸奥国白河藩、高井郡内には越後国椎谷藩、佐久郡内には三河国奥殿藩の飛び地があった。
その他善光寺、戸隠神社、諏訪大社等の寺社領、天領支配のための中野・中之条・御影・飯島の4つの代官所、交代寄合旗本(伊豆木陣屋の小笠原氏等)の知行所などが置かれた。
この時代には多くの出稼ぎ労働者を江戸に送り出し、彼らは「信濃者(しなのもの・しなのじゃ)」、「おシナ」あるいは暗喩で「椋鳥」と呼ばれ、「大飯喰らい」「でくのぼう」の象徴として江戸狂言に多く詠まれている。

 

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