一弘とは?/ キャッシュワン
[ 206] 山内一弘 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E4%B8%80%E5%BC%98
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起工業高校を経て、川島紡績より1952年毎日オリオンズに入団。シュート打ちの名人とも言われ、内外角のボールを左右へ巧みに打ち分けるバットコントロールの持ち主で、その技術に加えてパワーもあり、田宮謙次郎、榎本喜八などとともに「ミサイル打線」の中軸として活躍。1960年に32本塁打を放ち。本塁打王と打点王を獲得し、パ・リーグMVPを受賞する。首位打者1回、本塁打王2回、打点王は4回獲得。ベストナイン10回受賞。 1960年7月19日に開かれた東映対大毎(駒澤野球場)の試合で、3-1で東映のリードで迎えた8回表二死満塁の場面。東映の投手土橋正幸は山内をカウント2-3から見逃しの三振にしとめた。しかし東映の捕手安藤順三はこのとき第3ストライクの投球を後逸した。東映の保井浩一コーチ(この日は代理監督として指揮した)は三振でチェンジと思い込みナインにベンチに戻るよう指示していたが、大毎の選手は山内に、グラウンドを走るよう指示した。山内はダイヤモンドを一周し、満塁走者を一掃して自分も生還した。これに唖然とした東映のベンチは球審に猛抗議を行った。まず、「振っていない」「一塁に走者がいる」「振り逃げにならないのではないか」。しかし、一塁に走者がいても二死の時は振り逃げを試みることが出来る。また「山内のバットに触れた。チップではないか」と難癖もつけたが、もちろん認められない。最後には「山内は走塁放棄になるのではないか」と抗議をしたが、一旦アウトになったと勘違いした山内もまだベンチには入っていない(当時の規則では、打者走者が進塁を放棄したと見做されアウトになるのはベンチの階段に足がかかったときであった)ので、山内はまだ走塁を放棄しておらず、この進塁は認められる。結局、58分の中断の後に試合は再開された。公式記録は三振と捕逸であるが、この一件は「振り逃げ満塁ホームラン」などと呼ばれている。振り逃げで4得点を挙げるという珍記録により、この試合は大毎の逆転勝ちとなった。 指導者時代、教え出したら徹底的に指導することから「かっぱえびせん」(カルビーの同名商品のCMキャッチフレーズ「やめられない、止まらない」から)の異名をとった。気が付けば、唾を飛ばせて試合前の相手チームの選手にまで指導してしまう熱の入れようだった。阪神の助っ人選手として活躍したハル・ブリーデンやマイク・ラインバックなどには「阪神が弱くなったのは山内コーチを辞めさせたせいだ」とまで絶賛されている。 ロッテ監督時代、ルーキーだった落合博満の打撃指導をしていたが、当時の落合本人の技量では山内の高度な打撃理論を理解できなかった為、「俺のことはほっといてください」と言われる。しかし、1982年三冠王を獲した祝賀パーティの席で「一目見た時からいい打者になれそうな予感があったから指導したんだ、けれどもまさか三冠王を取るバッターになるとは思っても見なかった。」と話す。落合本人も山内の人柄・打撃理論、また指導してくれたことなどに関して、自著で感謝の意を述べている。 広島の臨時コーチ時代、高橋慶彦は更なる高みを目指して山内のレベルスイングを受け入れ思い切った打撃改造に挑み本塁打を増加させた一方で、打率が下降し選手寿命を縮めた。 またオリックスのヘッドコーチ時代に自分の指導方針に反発するイチロー(当時の登録名は鈴木一朗、現・マリナーズ)を2軍落ちさせたことも、指導者としての評価を落とす事になった。 若い頃の上田利治の指導者としての能力を高く買い、根本監督との意見の対立から広島を退団した上田を毎日時代の先輩である阪急の西本幸雄監督に推薦したことでも知られる。 オールスターゲームでは毎年のように快打を放ち、「オールスター男」「お祭り男」「賞金泥棒」などと呼ばれた。 意外に知られていないが、外野手としての守備も秀逸であり、特にその強肩で、プロ野球最多通算補殺(175補殺)の記録を保持している。 中日監督時代、ランナー一塁の場面で代打のコールを「バッターヒットエンドラン」とコールし、作戦をばらしてしまった。 巨人コーチ時代、報知新聞の付録のプロ野球名鑑のプロフィールの「趣味」欄に「コーチ」と書かれていた。実際に本塁打を打ってベンチに戻った直後の呂明賜にコーチする姿がテレビに映し出された。 |
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