大分とは?/ キャッシュワン
[ 961] 大分市 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%88%86%E5%B8%82
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大分市(おおいたし)は、日本の九州地方の東部、大分県の中部に位置する市で、同県の県庁所在地である。旧大分郡・北海部郡。古くは豊後国の国府が置かれ、府内(ふない)と呼ばれた。中核市に指定されている。 大分川及び大野川が形成した三角州及び沖積平野からなる大分平野と、その周りの丘陵とを抱え、瀬戸内海の別府湾に面する。市の東部には南から大野川が、西部には西から大分川が流れ、瀬戸内海に注いでいる。中心市街は、大分川の河口部西側にある。別府市との境界付近に位置しニホンザルが生息する高崎山地区、及び、豊予海峡に浮かぶ高島地区は、瀬戸内海国立公園に指定されている。 近年、市域を東西に貫通する形で大分自動車道、東九州自動車道が開通し、国道10号、国道210号等と接続している。 古代には、現在の大分市周辺は大分郡(おおきたのこほり)と呼ばれ、大分川下流沿い、現在の市の中心部からやや南に外れた位置(現在の古国府)に、豊後国の国府が置かれたと推測されている。 「大分」の名は、『豊後国風土記』によれば、景行天皇がこの地を訪れた際に「広大なる哉、この郡は。よろしく碩田国(おおきたのくに)と名づくべし」と名づけたもので、これが後に「大分」と書かれるようになったとされる。景行天皇の言葉は、今日では広大な平野の様子ではなく、多数の田が並ぶ様子を描写したものと解されているが、大分平野に古くから田圃が開けていたことを示すものである。 鎌倉時代には大友氏が豊後国に下向し、元弘3年(1333年)には豊後国の守護に任ぜられた。室町時代に入ると、第7代当主大友氏泰は、拠城をわずかに北にずらして大分川河口付近に館を構えた(現在の市の中心部の東部で、顕徳町にあたる。)。これが現在の大分市に連なる城下町のはじまりで、町の名を府内といった。現在の大分市街地中心部に残る「府内町」という地名や「府内5番街」という商店街はこの名残である。 戦国時代の府内は、最盛期には九州のほぼ全域を手中に収めた大友宗麟の支配下で、日本で初めての西洋式の病院が開設されるなど、南蛮文化を受容し栄えた。しかし、1586年(天正14年)の島津家久の侵攻によって炎上し壊滅したとされる。 近年、大分駅付近の連続立体交差事業および区画整理事業に伴い、大友氏館跡をはじめとする戦国期府内の遺跡が発掘されており、2001年(平成13年)には大友氏館跡が国指定史跡とされた。 宗麟の跡を継いだ大友義統が文禄の役での失態のために改易された後、府内を領地とした福原直高は府内城の築城を開始した。その半ばにして福原氏は関ヶ原の戦いの後改易されたが、その後府内を領地とした竹中重利が築城を続行し、府内城の完成を見ている。 大友氏の改易以後、豊後国は小藩に分割され、府内は府内藩の城下町となる。このため、江戸時代の府内は豊後国に多数ある小さな城下町のひとつにとどまった。1712年(正徳2年)の調査による人口は5,591人であった。 1950年代、大分市は人口10万人程度と、宮崎市とほぼ同規模で、九州(沖縄県を除く)では佐賀市に次いで小さな県庁所在地であった[1]。1960年代に入ると、高度経済成長の波に乗るべく新産業都市指定を目指し、その人口要件を満たすために1963年に鶴崎市や大南町などとの大合併に踏みきり、人口21万人となる。そして、1964年(昭和39年)1月、新産業都市に指定されると、沿岸部に新日鉄などの大工場が進出し、それまでの鄙びた一都市から九州を代表する工業都市として急速に開発が進み「新産都の優等生」と呼ばれた。 また、新産業都市として発展が見込まれたことから1970年代には長崎屋、ダイエー、ニチイ、ジャスコ、西友など関東・関西資本のスーパーが大分駅前に多数進出し、九州では珍しい首都圏の郊外都市のような駅前繁華街が形成される(現在はその大半が撤退、業態転換している[3]。)。 明治の大合併と呼ばれる市町村合併が進む中、1907年(明治40年)に3町村を編入。以後、上記の鶴崎市等との合併を含め、合併を幾度か行っている。詳しくは#行政区域の変遷参照。 大分郡大分町(初代)・西大分町・鶴崎町・別保(べっぽ)村・三佐(みさ)村・桃園村・松岡村・高田村・明治村・荏隈(えのくま)村・豊府(ほうふ)村・東大分村・八幡村・日岡村・戸次(へつぎ)村・判田村・河原内(かわらうち)村・竹中村・吉野村・稙田(わさだ)村・東稙田村・西稙田村・賀来(かく)村・諏訪村・野津原村 北海部郡佐賀関町・川添村・一尺屋(いっしゃくや)村・大志生木(おおじうき)村・神馬木村・佐加村・市村・小佐井村(こざい)・丹生(にう)村・西大在(にしおおざい)村・東大在村 1964年(昭和39年)に新産業都市の指定を受けたことで工業都市へと発展した。近年では、集積回路等の加工組立産業が進出するとともに、物流団地の整備、地域輸入促進計画のもと、物流の拠点としても成長を続けている。 繁華街は大分駅北側に広がっており、大型店のほか、セントポルタ中央町とガレリア竹町というアーケード商店街も有している。九州では珍しく駅前型の繁華街であり、鉄道やバスなど交通の結束点にあることから人通りはそこそこ多い。 また、ガレリア竹町の延長線上にある府内五番街商店街には有名セレクトショップが集まっている。 しかし、近年郊外への大型ショッピングモールの出店に伴い、中心市街地では相次いで大型小売店舗が撤退し、活性化が求められている。シネマコンプレックスも郊外に2つ作られ、市の中心部にあった映画街は衰退している。 1964年(昭和39年)に新産業都市の指定を受け、鉄鋼、化学、石油等基礎素材産業が進出したことによりし、大分・鶴崎工業地帯を中核に工業都市へと発展した。近年では、集積回路等の加工組立産業が進出するとともに、物流団地の整備、地域輸入促進計画のもと大分港大在コンテナターミナルが設置され、物流の拠点としても成長を続けている。 |
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